結合双生児

◆結合双生児 アビー&ブリトニー◆

 

アビゲイル・ロレイン・ヘンゼル(Abigail Loraine Hensel)とブリタニー・リー・ヘンゼル(Brittany Lee Hensel)は、1990年3月7日に米ミネソタ州で頭部を2つ持つ結合性双生児として生まれました。(写真 左がブリタニー、右がアビゲイル)父親のマイクは大工兼庭師、母親のパティは正看護婦。弟のダコタと妹のモーガンがいる6人家族。


彼女たちはそれぞれ背骨をもち、骨盤でつながっています。 ひとつの体のなかに胃は2つ、肺は4つ。 腕は2本ですが、生まれた時には2人の頭部の間にもう1本の腕がありました。しかしながらこの腕は発育も不充分で完全なものにはほど遠かったため、2人がまだ幼い頃に切断されました。共有している器官は、上述のほかに心臓は二つ(但し循環系は共有)、肝臓は一つ、腎臓は三つ、大腸小腸は一つずつ、性器、子宮、卵巣は一つずつです。 

 

姉妹が生まれた時、両親は2人を分離させるという選択をしませんでした。それは、2人が多くの身体的機能を共有しているため、手術にリスクを伴い、たとえ手術が成功したとしても、車いすでの生活を余儀なくされる可能性が強かったからです。現在も両親はその結論に後悔おらず、2人も別々になりたくないと述べているそうです。

 

12歳のときに、二人は胸部の歪みから起こりうる呼吸困難を予防するため、セントポールにあるジレット特別小児病院(Gillette Children's Specialty Healthcare)で、小児科脊柱側湾症(scoliosis)の矯正手術を受けました。

 

2人ともとても活発で、バレーボールやバスケットボール、キックボール、水泳、サイクリング等のスポーツや、歌唱やピアノの演奏の趣味もあり、同世代の若者と同様、デジカメによる撮影やインターネット、ソーシャルネットワークも楽しんでいます。結合した身体のうち自分側の身体を自分の意志で動かすことができるようです。つまり、自分自身の1つずつの腕と足だけをコントロールしており、互いに干渉することなく独立した状態にあるので、走ったりピアノを弾いたりするときには共同作業となりますが、絵や字を書くときには別々の腕を使うのです。

 

1つの体を共有していても、2人の服の趣味や味の好みは別々。アビーの好みは、マスタードをたっぷりかけたホットドッグにブリトニーは顔をしかめ、ブリトニーの大好きな林檎にアビーは顔を背けるといった次第です。性格はアビゲイルはとても外向的で、ブリタニーは内向的。

 

一昨年、自動車免許取得試験に合格したが、試験を2度受験しなければならなかった。運転する時、ハンドルは2人で、ペダルとシフトはアビゲイル、方向指示器のコントロールはブリタニーが担当、共同作業で行われている。

2008年にはルター派の高校を卒業後、ミネソタ州にあるat Bethel Universityに通学しています。2009年の1月にブリタニーが婚約したという報道がラジオで流れましたが、その情報は未確認。2人の夢は、普通の人たちのように、結婚して子どもを産むことだそうです。

 

明るく生き抜く彼女たちの姿に、たくさんの勇気と希望をもらいました。

 

【関連サイト】

 ・Fotoalbum (幼少時代からの写真)

 ・Wikipedia

 

◆カナダで初の結合双生児◆

   

2006年10月、カナダで結合体双生児として生まれたタチアナとクリスタ。後頭部と側頭部が結合状態で、耳も共有していますが、脳幹は各自が有しています。

 

2012年現在、ブリティッシュコロンビア州のバーロンに母親Felicia Simmsと生活しています。彼女たちには、2人の姉兄と妹がいて、祖母の Louise McKayも育児を手伝っています。定期的にバンクーバーのBC Children's Hospital とSunny Hill Health Centre for Childrenに来ては、健診を受けています。バンクーバーで結合体双生児が誕生したのは、1978年以来。同種の双生児が誕生するのは20万分の1の確率と言われ、カナダで2012年現在でも生存している唯一の結合体双生児です。  

 

2人がこれまで元気に育ってきたことは奇跡的。妊娠中には流産の危険がつきまとい、たとえ生まれてきても数ヶ月の命と見られていました。今では、普通の子どもと同様にWiiを楽しみ、おもちゃを巡ってケンカも。タチアナとクリスタは別々の性格をもつにもかかわらず、2人の脳と感覚システムが結びついているため、感覚を共有しています。例えば、タチアナが目の前にあるおもちゃを拾いたいと思ったとき、クリスタはそのおもちゃが自分の視界になくても拾いあげることができるそうなのです。双子の祖母ルイーズ・マッケイさんによると、彼女たちは思考も共有することができるそうで、それまで何も言葉を交わしていないにもかかわらず、タチアナは突然甲高い声で「やめてよ!」と言って妹をたたいたりするそうです。

脳と感覚システムが結びついていながら、異なる性格をもつ双子に科学者たちは高い関心を寄せていて、バンクーバー小児病院の神経外科医であるダグラス・コクレイン医師は2人の連絡能力をテストしました。「二人の脳は、一人の視野から入るシグナルを記録しているのです。つまり、どちらか一人が見ているものを、もう一人も見えているということです」

二人はまだ幼いため、この感覚や思考の共有について説明を求めることは不可能。今後それが可能になったとしても、その説明を他者が理解できるかどうかも不明。視覚や嗅覚などの「感覚」を人に説明するのは困難な上、彼女たちにとっては今の状態が自然であり、我々同様他に基準とするべきものなどないのです。

タチアナとクリスタの母親は、「彼女たちが生まれてきたことには理由があるはずです。・・・・今はまだその理由は分かりませんが」と、娘たちと過ごす毎日に感謝されているそうです。

 

【関連サイト】

 ・CBC News

 ・Wikipedia

 ・CTV News 動画 (4歳の誕生日 2010年10月)


 

◆世界最高齢の結合双生児

      ロニー&トニー・ガリヨン◆

 

Ronnie Galyon と Donnie Galyonが生まれたのは米オハイオ州デイトン、1951年10月18日午後9時でした。当時、帝王切開も用いられずに出産に至ったといいます。母親であるモーリーン・ガリヨンは、出産時までモーリーンは双子とは知らず、ましてや2人が繋がっているとは予想さえしていませんでした。頭部・心臓・手足などははそれぞれ一対ずつあり、分かれていますが、胸から腰までを共有。分離手術の可能性も探られましたが、たとえば共有している直腸と生殖器の制御はドニーにあるなど命令系統が混沌。まして1950年代という時代ではたとえ1体を生存させるのみとしても手術は危ぶまれました。

退院後、父親のウエズレーは最初、取材もほとんど拒んだといますが、ロニーとドニー以外にも7人もの兄弟の面倒をみなければならず、台所の苦しさから彼らをサイドショーに出演させることを決めます。出演させたお金を生計とし、彼ら2人をいれた都合9人の子供たちを育てました。アメリカから中南米にかけて興行でまわった2人は39歳になったときにようやく引退。稼いだお金で故郷に寝室が2つある家を購入しました。

 

学校からは、他の子供たちが怖がるからという理由で拒まれたため、読み書きを習えず、2人にとって今でも大きな悔いとなって残っているそうです。

 

ロニーとドニーが、かくも長期にわたって生命を維持してきたことは、世界中の医師たちにとっても驚嘆すべき事実です。ほかの人間ならなんでもないような生活していく上での些末なことがら。しかしそれをこなすにもロニーとドニーにしてみれば日々が闘いでした。

ロニーとドニーの弟、ジムはこう述べます。「兄さんたちは、お互いの2本の腕と2本の足をうまく使ってやっていますよ。たとえば体を動かすときには目配せしたりして合図を送っています。テレパシーみたいなものとはちょっとちがいますが、それでも一連の動きは美しく、調和がとれています」また、ジムに言わせれば2人は鏡をまったく必要としないそうです。顔を洗うのにも互いを見て、必要なら髭を剃りあえばいいことなのですから。
「兄さんたちは月に一度、お気に入りのレストランに出かけるんです。そこでは誰もが2人を別々の人間として扱ってくれるんです」


ロニーとドニーには現在、別々の人権が認められ、投票権は別にあります。それは結合しているとはいえ、お互いが自身のアイデンティティを保つためには必要なことでした。家事や雑用をこなす上で、たとえばロニーの左手とドニーの右手というように、お互いの手を片方ずつ使わなければなりません。それでも性格には差があり、ロニーはより家庭的なドニーのことを、ときに「リトルワイフ」と呼んでからかいます。また、よく暗闇を怖がるドニーに対し、手を差し伸べるのはロニーの役割。ベッドを分かち合う2人はお互いがお互いの癒しとなることを知っています。

しかしもちろん、兄弟で意見が異なるのは毎度のこと。ジムは述べます。「兄さんたちはテレビの番組を観るのもちがうし、2台あるテレビで別々の番組を観てますよ。でも片方がボリュームをあげると、もう片方も負けじとボリュームをあげるんです」いったん兄弟喧嘩がはじまると、まず誰も中には入れません。それはそうでしょう。互いに別の部屋にこもって頭を冷やすというのは不可能なのですから。諍いは始まると4、5日続くそうです。

これに関して彼らの掛かりつけの医師、グレン・クウィアトはこう付け加えます。「ロニーとドニーの近さは必ずしもいい面ばかりとは限りません。たとえば誰か大好きな人がいたとして、その人と四六時中鎖で繋がれたと想像してごらんなさい。2人の間では妥協と歩み寄りという言葉が人生の銘となるかもしれません。実際、ロニーとドニーの場合でも片方が片方を殴って、何針も縫うような怪我をしたこともあります」

もうひとつの問題はセックスに関してです。ロニーとドニーには別々の胃、肺、心臓がありますが、胃より下の消化系は共有、小腸はひとつで生殖器もひとつです。ジムはこう述べます。「兄さんたちはもちろん、誰か女の子とデートし、結婚して父親となることを望んでいます。でもそうなった場合、どちらが父親になるかというと問題ですね」クウィアト医師によると、生殖器がひとつでもその機能は普通の男性と比べて変わらず、それだけに通常の性衝動と男性ホルモンを備える兄弟が、青春期にどれほどこの「性」という問題と格闘しなけらばならなかったかは想像に難くありません。

現在、肥満および脊柱側弯症、関節炎と闘う2人は、滅多に外出することもなくなったといい、健康上の懸念があることも指摘されています。ジムとクウィアト医師は現実問題として、もう2人がさして長くは生きながらえないことを覚悟しているようにも映ります。「おそらく2人のうちのどちらかが亡くなれば、もう片方も24時間以内には亡くなることでしょう。しかし、この生涯も彼らにとってはなんら悔いがなく、幸せに充ちたものであったと思いたいです」

ロニーはこう言います。「おれたちの願いはただひとつ。神よ、2人を分けてくれ。大いなる神よ、どうか2人を分けてほしい。おれたちを作ったのは神だ。それならおれたちを分けるのも神だろう。分けてくれ、メスを使わずに」

 

【関連サイト】

 ・The Sun

 ・Wikipedia

 

◆世界最高齢第2位の結合双生児

     ロリー&ジョージ・シャペル◆

 

ロリーとジョージは、1961年9月18日、米ペンシルバニア、レディングで生まれました。結合双生児の中でも数少ない頭部が癒着して生まれた2人は、前頭葉のおよそ30%を共有し、かつ身長5フィート1インチ(約155センチ)のロリーに対して、脊椎披裂を患うジョージの身長が4フィート4インチ(約132センチ)。ジョージが歩くことができないため、ロリーはジョージの乗る車いすを押して移動します。

法廷は2人を育てるにあたって両親が適切な面倒を見切れないと判断。60年代、こうしたまれな障碍をもつ児童が入所できる施設がなかったため、2人は精神病患者を収容する施設に引き取られ、そこで育ちましたが、幼い頃から自分たちで身のまわりの世話をしなければならなかった姉妹は、学業で優秀な成績をおさめ、訴え出て大学に進学するという夢を果たしました。

2人にはもうひとつ問題がありました。ジョージの性同一性障害です。「とても幼い頃から自分は本当は男の子ではないかと思っていました。おもちゃの電車が大好きでしたし、ふだん女の子のような格好をさせられるのがすごくいやだったんです。でもロリーにはそのことを言えなくてずっと隠してました」やがてロリーに打ち明けた彼女は、もともとの名前、ドリーからジョージに名前を変え、男性として生きる決心をします。「思っていたよりずっと大変でしたけど、年もとっていましたし、この先も偽りの性で人生を送りたくはなかったんです」

いっぽうでロリーは男性とデートを重ね、23歳、2人目の彼氏と付き合っているときに処女を失いました。「デートのとき、ジョージは持ってきた本を読んでます。お互いに向き合うことがないので、彼氏とキスしてもジョージは無視してます」そんなロリーは5年前に婚約までに至った彼氏がいましたが、残念なことに挙式の4カ月前に車の事故で亡くなりました。「ひどく悲嘆しました。心がバラバラになりました。いまだ彼氏の両親とはお付き合いがありますけれど。最近になってようやく男の人とデートができるようにもなりました。でもジョージが慰めてくれなければ乗り越えられたかどうかはわかりませんね」

大学卒業後、ロリーは病院のランドリーで働き、ジョージはその間、本を読んだり音楽を聴きながら過ごしていました。そのジョージは音楽で才能を認められ、LAミュージックアワードでニューカントリーアーチストの賞をとり、コンサートにも出、ドイツおよび日本を訪れてもいます。ジョージが歌う間、一心同体であるロリーは、とにかく「大人しく」していることを心がけているそうです。

ロリーが得意とするボーリングで数々のトロフィーを得、ウォッカとオレンジが好きな外向的な性格に対し、ジョージはお酒が飲めなくて好みもまったく逆。人生を謳歌する2人ですが、生まれたときには2人が半世紀を生き抜くことができるとは誰も想像はしませんでした。

「50歳なんか越えられないってずっと言われてきましたけど、それができて今では2人とも天にも昇るような気持ちです」

 

【関連サイト】

 ・The Sun

 ・Wikipedia

 ・X51.ANIMA 



◆シャム双生児 チャン&エン・ブンカー兄弟◆

 

タイ・サムットソンクラーム県出身の結合双生児。向かって左が兄のチャン、右が弟のエン。 2人は胸部と腹部の中間付近で結合していました。結合部がある程度伸縮し、正面での結合でありながら写真のように横に並ぶこともできました。そのため、側面結合と誤解されることもあります。この結合部に肝臓が存在、2人が唯一共有していた部分です。結合部に肝臓があることが問題となったのか、当時の医療では分離手術は難しいとされ、2人は生涯結合したままでした(現在ならば分離は容易らしい)。結合双生児の異称シャム双生児の語源となったことでも有名な兄弟。 

 

父は中国人の漁師、母は中国人とマレー人のハーフ。このため、地元タイでは中国人という認識であったらしい。タイにいた当時、彼らにはまだ姓がありませんでした。1829年にイギリス人に発見されて引き取られ、その後、サーカスの見世物として欧米を巡業しました。

 

2人がサーカスの見世物として巡業していた時に「The Siamese Twins」(シャム人の双子、シャムとは現在のタイ)と名乗ったのが「シャム双生児」という言葉が生まれた最初であり、以後結合双生児を指して普遍的にこの言葉が使われるようになりました。

 

1839年に2人はサーカスを辞めてノースカロライナ州マウントエアリー(Mount Airy)に定住、アメリカの市民権を取り、「ブンカー」の姓に名乗ることに(この姓を名乗った理由は不明)1843年にそれぞれ普通の女性(姉妹)と結婚、チャンは11名、エンは10名の子を設けた。二人は同地でプランテーションを経営したそうです。

 

1874117日に兄のチャンが気管支炎で亡くなると、約23時間の差で弟のエンも亡くなってしまいました。しかし、没62歳は、現在でも結合双生児としてはかなりの長寿だそうです。

 

【関連サイト】

 ・X51.ANIMA

 

◆三本足のサッカー選手

       フランク・A・レンティーニ◆

 

1889年、シチリアのシラクサで生まれたレンティーニは、3本足の寄生性双生児。両性具有者であり、3本目の足は、他の2本足に比べ、若干短く、しかもやっかいなことに、3本目の足の膝部からはまた更に未発達の足が生えていました。

 

生まれて間もなく奇形を理由に両親に見放されたため、他の11人の兄弟とは離れ、叔父によってしばらくの間育てられていましたが、その後、障害者施設に入所。最初は、自分の体にコンプレックスを持っていましたが、目の見えない子どもたちや耳の聞こえない子どもたちと出会うことで、コンプレックスを克服。その後は、積極的にアイススケートやロープジャンプなどを学んだそうです。やがて9歳になると、施設を離れ、アメリカに渡ってサイドショーに参加しました。3本目の足を使ったサッカーショーを披露し、「三本足のサッカー選手」と呼ばれ、人気を得たそうです。

 

ショーを見に来た子どもたちには、どんな質問をされようとも、辛抱強く答えたそうですが、レンティーニの知人 アントン・ラヴィーによると、全く奇妙なことですが、レンティーニは「3本目の足に関しては、いつも誇らしげにしていたのにも関わらず、3本目の足から生えた、小さな4本目の足を人に指摘されることを、何よりも嫌っていた」そうです。

 

30歳でアメリカの市民権を獲得し、テレサ・ムラリーという女性と結婚したのち、4人の子供(ナタリー、フランク、ジェームス、ジェニー)をもうけ、1966年、フロリダ州ジャクソンビルにて77年の人生を終えました。

 

生前、彼が言っていた言葉です。

 

「もし誰もが腕一本の世界だったら、二本腕の人を貴方はどう思うかね?」

 

私たちはつい、多数か少数か・・・によって、「正常・異常」「健常・障害」といった区別をしてしまい、やがて、その判断が差別とつながっていきます。同じ現状でも、基準をどこにフォーカスするのかによって、また違った見方ができるのですね。レンティーニの言葉に非常に感動を覚えてました。

 

【関連サイト】

 ・X51.ANIMA 

 

◆ゴスペル歌手姉妹 イヴォンネ&イヴェッテ・マッカーサー◆

  

1949年5月14日、米ロサンゼルスに生まれた姉妹は、母親のウィラ・マッカーサーさんが分離手術を望んだため、しばらく病院に入院していました。しかし、その後の検査で、余りにも多くの組織を共有していることから、分離することが容易でないことが明らかになり、母親が自宅で養育することに。それから間もなくして、姉妹の噂を聞きつけたサイドショービジネス関係者から、「見世物として働かせたい」という打診が来ましたが、当初母親はかたくなにその要求を拒否。しかし、姉妹の治療費がかさみ、支払うことが困難になってしまったため、母親は「半年間の期間限定、週300ドルの報酬」という条件で、ロイヤル・アメリカン・サーカスと契約することを決意しました。苦渋の決断だったであろうと思いますが、その報酬のおかげで、病院の治療費を払い、姉妹に良い生活環境を与えることが出来ました。

 

姉妹を幼い頃に診察した医師は、頭頂部で繋がっている「垂直型頭蓋結合」で、脳を共有していたため、知的障害や歩行困難の可能性を示唆しましたが、そうした諸々の予測は全く杞憂に過ぎないことを自らの力で証明しました。姉妹は、平均的な知性を身につけ(しかしイヴェッテの方は非常に内向的な性格であったという)、運動能力も高く、母親は「2人がいつか首の骨を折るのではないか・・・」と心配した程であったといいます。しかし、そうした心配をよそに、2人の身体はしっかりとした調和を見せ、走るときでさえ、ぴったりとリズムを合わせられました。

 

ジョージア州のオーガスタで幼少期を過ごし、のちに、カリフォルニアのサンフェルナンドに移転。地元のショッピングセンターで"個々に"ショッピングを楽しんでいたそうです。成人後、姉妹はゴスペルの歌い手として成功し、全米をツアーしながら、各地の教会を訪れてはその美声を披露。歌手のリンダ・ホプキンスに師事。リンダは彼女らを娘のように家で育てるだけでなく、姉妹のツアー日程を管理するマネージャー役も勤めました。普通高校へ通うことは出来ませんでしたが、電話による指導や教師の家庭訪問によって、熱心に勉強し、無事、高校を卒業することができました。卒業後の1987年、ついに母親のもとを離れ、2人だけでアパートを借りて念願の独立生活を始めました。

 

その後、コミュニティーカレッジに入学。看護学の学位取得を目指して頑張っていた矢先の1993年1月1日、自宅で死亡している姿で発見され、夢はかないませんでした。検死によれば、2人が死亡したのは1992年12月15日頃。心臓麻痺であったことが確認されました。おそらく原因は姉妹のヘビースモーキングではないか・・・と言われています。

 

一般に結合性双生児は、その想像を絶する環境下で暮らさなければいけないため、喧嘩が絶えないと言われていますが、マッカーサー姉妹は、生涯を通して仲がよかったといいます。いつも同じ服を着込み、同じときに同じものを食べ、たばこさえ共有。何よりも興味深いのは、2人はインタビューを受けるとき、共に決して"We(私たち)"という人称を使わずに、常に"I(私)"と単一人称を用いていたことです。それは、2人が独立した個性を持っていたのにもかかわらず、関係がとても上手く調和していたことを表しています。

 

姉妹には実父と義父がいました。実父は、ジョン・ジョーンズなので、しばしばジョーンズの姓で呼ばれることもありました。姉妹は、ジョエル・ピーター・ウィトキンの作品集にもモデルとして登場しています。(写真左)